時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。
今回も南城市の『旧玉城村百名』を取り上げます。
百名小学校前が地域の中心。カジマヤーの棒術が披露された
百名のシンボルといえば、百名小学校です。沖縄戦直後の1945年7月に設立、当初は近隣の収容所にいた子どもたちが学ぶための学校でした。余談ですが、現在与那原町にある知念高校も、当時収容所にいた住民で周辺の人口が激増したため、旧知念村志喜屋に開校、その後、数ヶ月のみでしたが百名に校舎を移転、その後親慶原を経て、現在の場所に落ち着きました。
百名のメインストリートとも言える小学校前でおこなわれた1987年のカジマヤーの写真が出てきました。
メインストリートである一方、窪地だったため水害も多かった百名小学校前
地域の中心である一方、この場所は何度も水害がありました。というのも、かつてはこの辺りも水田だったことが影響しているそうです。さらにここは、ゆるやかな窪地でもあるため、どうしても水が押し寄せてしまう地形であること一因だそうです。
次の写真は小学校前の道路近くにあった、地域の商店です。百名の生活を支えたお店で、食料品はもちろんのこと、各種生活雑貨、さらには棺桶の材料まで揃っていたそうです。
百名は高台にある集落なので、場所によってはとても見晴らしがいいのも特徴です。南部ドライブのついでに散策で訪れてみてはいかがですか?
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)