平成が終わり、時代は令和となりました。時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。今回は、南城市の『旧知念村字知念』を取り上げます。
かつては県内屈指の米軍基地の町だった南城市一帯
『沖縄の米軍基地』といえば、宜野湾市や嘉手納町、北谷町、沖縄市、そして名護市辺野古などの中部から北部に集中しています。しかし、かつて旧玉城村(現:南城市)に米軍基地が存在していたことをご存知ですか?それは『知念補給基地(通称:キャンプ知念)』といいます。現在の琉球ゴルフ倶楽部です。
1945年に接収され、1974年に全面返還されました。米陸軍の管轄していた基地で、兵舎や倉庫、住宅などがあり、特殊部隊もいたとされていますが、詳細は現在もわかっていません。
多くの周辺住民がこの基地で働いていましたが、旧知念村字知念の方々も同様でした。未だ謎に包まれているキャンプ知念ですが、上記施設の他、戦場で使用するカメラの修理工場があったのだそうです。そこで修理工として働いていたという方が、字知念にいらっしゃることがわかりました。

ここに写っている4名の方が修理工仲間だそうです。話は飛びますが、字知念には地域の方々や風景を写した古写真が多数存在しています。当時カメラやフィルムは高級品で、印刷代も高かった時代にもかかわらずなぜなのでしょうか?
実は、キャンプ知念にカメラの修理工場があったことが大きく関係しているのです。
『無事に直っているかの確認』という名目でカメラを持ち出し、地元を撮影していた
カメラの修理工だった方によると、当時、カメラは基地から持ち出し禁止でした。しかし、『無事に直っているかどうかの確認のため』という名目で、修理したカメラを外に持ち出し、自分が住んでいる地域の写真をたくさん撮影したのだそうです。このため、字知念には古い写真が多く残っているのだそうです。
字知念や南城市だけでなく、沖縄県に残っている1950~70年代の写真は、米軍基地の存在が密接に関わっているのです。



(協力:南城市教育委員会 / 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)