平成が終わり、時代は令和となりました。時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。
今回は南城市の『旧佐敷町新里』を取り上げます。
1959年のシャーロット台風で山崩れ。甚大な被害が出た新里
沖縄で最も被害が出る災害といえば台風です。現在は建物も頑丈になり、家ごと被害が出るということはほぼ無くなりましたが、やはり厳重に警戒すべき災害であることは、今も昔も変わりありません。
かつて沖縄は、何度も巨大台風の被害を受けましたが、その中でも甚大な影響が出たのが、1959年のシャーロット台風です。沖縄県内だけで40名以上の犠牲者を出し、1200棟を超える建物被害が出ました。
中でも、大きな被害を受けたのが新里でした。集落の南側は険しい崖になっているのですが、そこで大規模な崖崩れが発生したのです。新里では2名の方が無くなりました。このときの様子がたくさん写真に残っています。
現場は壊滅的被害。住人は集団移転を余儀なくされた
この崖崩れ、新里の中でも公民館がある周辺は殆ど被害が出ませんでした。どこだったかというと、主に東側がほぼ壊滅的な状況になったのです。実はこの辺り、新里では『桃原ヤードゥイ』と呼ばれる、琉球王朝時代に首里から移住した士族たちが居を構えていた場所でした。
『桃原ヤードゥイ』では、あまりにも被害が大きかったため、人が住めない状態となり、近くの兼久集落に集団移転を余儀なくされたのです。次の写真は、移転直前『桃原ヤードゥイ』の人達による分散会の写真です。後ろの山を見ればその被害の大きさがわかります。木が一本も生えていないほどになってしまいました。
実は、この崖崩れがあった1959年、地域ではある予兆があったと言います。それが『綱引き』でした。新里では古くから『綱引きをすると山が崩れる』という言い伝えがあったのです。この年、何年ぶりかに綱引きを行いましたが、当時は「まさかね」というような状況だったそうです。その時の様子が写真で残っています。
新里ではこの年を境に、綱引きは縁起が悪いということになり、二度と行われなくなりました。沖縄各地で行われている綱引きですが、どの地域でも縁起物としての行事です。 しかし、新里だけでなく『縁起が悪い』とされている場所もあるそうです。
近年、沖縄だけでなく全国各地で自然災害が多発しています。そんな背景もあり、新里では地域内で、崖崩れの歴史の継承活動も地道に行っています。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)