平成が終わり、時代は令和となりました。時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。今回は、南城市の『旧知念村久手堅』の2回目です。
人口は少ないが常に子どもたちが大勢いた久手堅
前回、久手堅は小さい集落だったとご紹介しました。しかし、常に子どもが大勢いるのも久手堅の特徴なんです。理由はずばり、知念小学校と中学校があるからです。そして、かつての役場も久手堅にあったため、実のところ、久手堅は旧知念村の中心でもあったのです。
旧知念村は久高島を除き、小中学校がそれぞれ一つずつしかなかったので、村内のほぼ全ての子どもたちが久手堅に通っていたことになります。こんな事情もあり、久手堅を始め、旧知念村には各年代ごとの学校の写真がたくさん残っているんです。
その一例が卒業記念や修了記念の写真です。制服を着ていたり、私服のままだったりと、当時の子どもたちの服装事情がよく分かるのが卒業・修了記念なんです。調べたところ、当時の子どもたちにとっては、制服がフォーマルな洋服だったようです。
地域行事の拠点だった知念小学校・中学校。多くの行事が行われた。
久手堅にとどまらず、学校は地域全体にとって、様々が行事を行う大切な拠点でした。中でも最も盛大に行われたのが『部落対抗運動会』です。各字を代表する選手たちが陸上やバレーボール、バスケなどの試合を行っていました。娯楽の少ない時代でもあり、毎年大盛り上がりだったそうです。
また、この運動会は米軍との交流の機会でもありました。近くにあった米軍基地『キャンプ知念』の米兵も参加し、一緒になって盛り上がっていました。その背景には、学校を始めとする公共施設の整備には、米軍がブルドーザーなどを出していたことや、学校の備品、例えばブラスバンド部の楽器などを寄付しており、常日頃から交流があったことがあります。
学校は教育だけでなく、かなり幅広い交流を行う拠点だった時代があったんですね。特に米軍との交流を記録した写真は、沖縄県内に多く残っています。今後、少しずつご紹介できればと思っています。『良い悪い』はさておき、沖縄はどんな戦後があり、地域はどんな日常を過ごしていたか、何を得て何を失ったのか、これらを『事実ベース』でご覧頂ければと思います。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)