時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。
今回も南城市の『旧玉城村奥武』を取り上げます。
数百年に渡って悩まされてきた「水問題」。島内で真水は殆ど手に入る場所は殆ど無かった
前回、奥武島の戦後は米軍との交流の歴史であることをご紹介しました。スポーツやイベントの交流はもちろんですが、大切なのがインフラ整備です。その中でも米軍が整備した中で、最も島の生活に貢献したのが「水」です。1959年に沖縄初の高等弁務官資金が交付されましたが、それが奥武島だったのです。奥武島は元々小さな島であり、水には長年苦労してきました。
島には数ヶ所の井戸がありますが、海に近いこともあって塩辛く、あまり美味しくなかったそうです。真水が出る井戸は、現在公民館の隅にある「観世音泉(カンヌンガー)」など、数ヶ所しかなかったといいます。
1959年に交付された高等弁務官資金で整備されたのが簡易水道です。現在の玉城中学校の裏山の土地を購入、そこを水源地として水道パイプを引っ張り、島で一番の高台まで組み上げて、各家々に配水されていました。
地域の中心はもちろん公民館。子どもの遊び場であり、若者向けのダンスパーティーも行われていた
奥武島に来る人の殆どは天ぷら屋さんと島の外周をドライブして終わり、というパターンだと思います。しかし、奥武島の中心地はもう少し奥に入った場所で、公民館と観音堂がある辺りになります。まずは、公民館の古写真です。地域住民の活動拠点としては当然ですが、若者のダンスパーティー会場(合コン)としても使われ、沖縄各地から若い男女がやってくることもあったそうです。
観音堂の脇にはかつて共同売店があった。生活に必要な物は全てここで揃えた
奥武島一番の聖地は公民館前の観音堂です。ここでは現在も祭事や行事が行われていて、島民の厚い信仰が寄せられています。その鳥居の脇、現在は駐車場となっている場所に、かつては共同売店がありました。
奥武島は天ぷらと海以外にも、史跡旧跡など、実は見どころがたくさんある島です。しかも、歩いて回れる規模なので、いつもとは違う島内散策もオススメします。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)