時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。
今回は南城市の『旧大里村稲福』を取り上げます。
地名を聞いて「あそこね!」と分かる方はほとんどいないでしょう。稲福は住所でいうと「大城」。旧字名がそのまま呼び名として残っている地域です。場所も見当が付かないと思いますが、那覇から南風原を経由し、奥武島に向かう途中で必ず通過している場所で、食肉センターの周辺になります。
稲福は歴史も古く、かつては名前のとおり稲作が盛んな場所でした。あまり馴染みのない場所ではありますが、その理由の一つに「戦後の集団移転」があります。
かつて稲福集落は、山の上の方、現在「稲福遺跡」がある場所が中心地でした。しかし、沖縄戦直後、近くに沖縄民政府が設立されたため、旧稲福も米軍に接収されてしまったのです。そのため、住民は移転を余儀なくされ、かつて田んぼが広がっていたエリアに集団で移り住み現在にいたります。
かつての旧稲福の様子が撮影された、米軍の空撮写真がありますので、まずはこちらを御覧ください。
また、現在でも稲福集落の慰霊塔や拝所は、旧稲福に存在しています。
話を戻しますと、奥武島に向かう道(県道86号線)も、写真で見れば「あ、ここ知ってる!」となるはずです。その道の古写真もご紹介しましょう。アスファルトで整備されたのが80年代後半と、結構最近までしばらく砂利道でした。
中部や那覇空港周辺の集落に関しては、米軍の接収による強制移転の歴史が割りと継承されているのですが、実は南城市でもそういう場所があったことは、あまり知られていない戦後史です。沖縄戦と同じく、待ったなしの状況であることが、稲福の古写真調査で判明したのです。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)