平成が終わり、時代は令和となりました。時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。
今回は、南城市の『旧大里村大城』です。
南風原町の兼城十字路を南下し、親慶原交差点に繋がる県道86号線。南城市の真ん中を貫く主要道路です。食肉センターから少し進むと『大城城址』という看板が出てきます。この辺りが旧大里村大城集落になります。
大城は旧大里村の中では最も規模の多い集落で、戦後直後から2000~3000人の人口がいたそうです。その理由としては、近くに沖縄民政府があったので、そこに通う職員が住んでいたこと、そして、平地が広がり、水も豊富だったので稲作が盛んだったことがあります。
『大城』といえば『綱引き』。県内でも有数の荒々しい様子が見られる
ところで、大城と聞いて『綱引き』という言葉が浮かんだ方は、かなりの綱引きマニア(?)ですね。そのとおり、大城は綱引きで非常に有名な地域なんです。毎年ウークイ後の最初の土曜日に行われています。
沖縄県内各地に綱引きがある中、なぜ大城は有名になったのか。それは、県内では珍しく、まるで喧嘩をしているような荒々しい挽き方をしているからです。ドラや太鼓を威勢よく叩きながら、相手を威嚇するかのように、綱を上下に叩きつけるなど、大きく揺らしながら引き合うという、盛り上がること間違いない様相を呈しています。
さらに、大城では10年に一度『シタク綱』という、普段の綱引きより規模が大きい綱引きが行われます。綱の上に歴史上の人物や王様に扮した方が名乗り合うなどして、お祭りを盛り上げます。シタク綱には、集落の人口を遥かに上回る、2000人以上の観客が訪れるのだそうです。
このシタク綱は戦後、1953年に行われましたが、その後、手間がかかりすぎるなどの問題でしばらく封印されていました。そして1988年、35年ぶりに復活、そこから10年おきの開催となりました。次回のシタク綱開催は2028年ということになりますね。
今回は1953年、戦後初のシタク綱と、1988年の35年ぶりに行われたシタク綱の写真をご覧いただきます。いずれも、ものすごい数の人達が参加しています。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)