やちむんのふるさと那覇・壺屋のやちむん通りに、約300年続く壺屋焼の窯元・育陶園があります。壺屋に生まれ育ち、家業である育陶園で経営全般に関わる業務統括を行う高江洲若菜さんは「壺屋やちむん通り会」に企画班を立ち上げ、壺屋のまちの活性化に向けた活動も行っています。そんな高江洲さんに、壺屋というまちの昔・今・そして今後について伺います。
― 簡単なプロフィールと現在のお仕事を教えて下さい。
1982年那覇市壷屋生まれ、育ちもずっとここ壺屋です。高校卒業後、沖縄女子短期大学で保育の勉強をしていました。卒業後は実家の家業でもある育陶園を手伝うことになり、接客や陶芸教室・体験教室のお世話の他、経理などを担当していました。現在も取締役として『有限会社育陶園』の経営側の仕事を担当しています。
― 小さい頃はどんなお子さんだったんですか?
まじめでしっかり者で、学級委員をやるタイプでした。でも、忘れ物が多かったりと、少しおっちょこちょいでした。実家が製陶所ということもあり、作業場が遊び場で土いじりは小さい頃からしていました。小学校3年生ぐらいのときには箸置きを作って、一つ50円ぐらいで売っていました。ちょっとしたお小遣い稼ぎですね。
― 家業を継ごうと思ったきっかけはなんですか?
陶器や土が身の回りに当たり前のようにあるという環境でしたので、実は陶器に対して特に興味もなく、将来この仕事をやることなど全く考えていなかったんです。ですが、短大を卒業してすぐ、私のおばさんに当たる父親の妹さんが肝臓の病気になり、父が臓器提供をすることになったため、そこから1~2年、父があまり仕事に関われず、さらに体力も思ったように回復しなかったこともあって、家族的にも経営的にもごちゃごちゃとしてしまったんです。でも、当時は何も分かっていなくて「大変だったら手伝うよ~」くらいの軽い気持ちでした。その後すぐに相当大変な状況に気付かされたんですけどね。
子どもの頃に見ていた壺屋の風景の半分ぐらいは無くなっていますね。
― このまちにずっと身をおいてきたからこそ感じた、まちの特徴と変化はなんですか?
まず変わったのが風景ですね。徐々に古い建物が無くなってマンションや駐車場になり、すーじ小もどんどん消えていきました。子供の頃に見ていた壺屋の風景の半分ぐらいは無くなっているという印象です。それに、小さい頃はまだ、昔は頭の上にカゴを載せて歩いていたおばあちゃんがいましたからね。商店や天ぷら屋さん、お豆腐屋さんもあって、ここ壺屋だけで生活が成り立っていました。
― 『壺屋』を形容するとどんなことばが思い浮かびますか?
『匂いがあるまち』ですね。壺屋は人の生活の匂いが感じられるんです。近くに公設市場もあったこともあると思うのですが、小さいコミュニティだけで完結できていたと思うんです。便利さもあるし風情も残っているという特徴があります。
さらに、沖縄戦でも被害が比較的軽く済んだり、那覇の戦後復興はここ壺屋から始まったという歴史も含めると、とても不思議な力を持つまちなのではと思います。
壺屋焼を焼き続けながら、かつて私がみていたまちを再現したい。
― 5年後、10年後、このまちはどうあってほしいと思いますか?またそこに、どのような形で関わっていきたいと思いますか?
理想は少しでもこの街並みが残っていてほしいというのがあります。でも現実的に考えると、私たちとしては、ここ壺屋で壺屋焼をずっと焼き続けていくということだと思っています。これは地域の人たちにとっても、自分たちのまちには焼き物があるんだ、という『アイデンティティ』に繋がるのではと。
もし、自分たちにもっと資金も余力があったら、土地をもっと買って、焼き物だけじゃない、かつて私が見ていたまちを再現したいというか、『自分たちの見たい景色』を作りたいんです。壺屋は通り会を通して地域の方と交流があるので、できるできないに関わらず、議論は続けていきたいなと思っています。
【お店情報】
壺屋焼窯元 育陶園
那覇市壺屋1-22-33
Tel 098-866-1635
Open 10:00-18:30
定休日: 1月1日、2日
https://www.ikutouen.com