時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。第今回は、南城市の『旧佐敷町新開』を取り上げます。
新興住宅地の『新開』。人口増加のため埋め立てで作られた地域
南城市にある馬天港に隣接する『新開』地区は、歴史がまだ浅く、文字通り『新しく開かれた』地域です。というのも、1960~1970年代にかけて埋め立てて作られた場所なんですね。そもそもなぜ埋め立てる必要があったのか、そこには沖縄の地形にまつわる背景があったのです。
南城市が発足したのは2006年。大里村、知念村、玉城村、佐敷町の3村1町が合併して誕生しました。もうお気付きかもしれませんが、佐敷だけ『町』ですね。実は合併前、3村1町で最も人口が多かったのが佐敷町だったのです。ですが、佐敷町はこの中では最も面積が狭い地域。なのに、なぜ佐敷は人口が多かったのでしょう?
実はここに『新開地区』誕生の秘密があります。佐敷町は面積は狭いのですが、他の3村と比べて平地が多い地域でした。しかも、佐敷町は馬天港があり、交通や漁業(かつてはクジラ漁の一大基地でもありました)が盛んで、多くの人が出入りする地域でもあったことから、1960年代から一気に人口が増え始めたのです。その後も人口増加が予測されたため、その対策として『新開地区』が埋め立てられました。
埋め立てが始まったのは1960年代。1970年代にはマンションや公民館の建設が始まります。その風景の写真が残っていますのでご紹介しましょう。