平成が終わり、時代は令和となりました。時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。今回は、南城市の『旧知念村久手堅』を取り上げます。
斎場御嶽のお膝元・旧知念村久手堅。現在の入り口は『三代目』だった!?
沖縄本島最大のパワースポットといえば『斎場御嶽』ですね。年間約40万人の観光客が訪れる観光地でもあります。斎場御嶽は住所でいうと南城市知念久手堅に位置しています。久手堅は聖地のお膝元であり、数百年の歴史を持つとても古い集落なのです。
現在、斎場御嶽に行くには、近くのがんじゅう駅南城に車を停めて、歩きで入り口に向かいます。実は現在の入り口は三代目であることをご存知でしたか?そして、そもそも初代と二代目の入り口はどこにあったのか。結論先に言いますと、いずれも久手堅区の中にあり、現存しています。
まず初代の入り口。集落の中に公民館があり、その裏手の山の中にあります。琉球王朝時代、巫女の最高位である『聞得大君』の就任式『御新下り(おあらおり)』や、聖地巡拝行事『東御廻い(あがりうまーい)』の際は、この入口が使われていました。現在は草木に覆われて鬱蒼としていますが、今後整備される予定です。
そして二代目。がんじゅう駅南城から国道331号線を安座真向けに少し進むと、左側に『ウローカー』という看板が見えてきます。ここが二代目の入り口なんです。時代ははっきりしませんが、戦後にはこちらの入り口が使われていました。
古いレンタカーのナビには、なぜか二代目の入り口が『斎場御嶽入口』と表示されることがあるそうで、たまにここでキョトンとした車が立ち往生しているのだそうです。
農地や田んぼがなく、琉球王朝の御神事を手伝うことで生き延びてきた
久手堅に行ってみると、とても小さな集落で平地があまりないことが分かります。昔の沖縄はどこも基幹産業は農業でしたので、畑や田んぼがない場所は、別の手段で集落全体が生活ができるようにしなければなりませんでした。
久手堅は何を産業にしていたのか、それが琉球王朝の『御神事』を手伝うことだったのです。例えば、御新下りの際、久手堅に到着した聞得大君や琉球王朝の役人を斎場御嶽までエスコートしたり、その他のお世話をしていたそうです。
公民館の前に、琉球石灰岩の塊があるのですが、そこは聞得大君が馬から乗り降りするときに使っていた踏み台なのだそうです。これも、久手堅ならではの史跡ですね。
その他にも集落内には、琉球王朝時代を忍ばせる史跡旧跡があり、昔ながらの区画がそのまま残っていますので、斎場御嶽とセットで街歩きするのも面白いかもしれませんね。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)