時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。
今回は南城市の『旧玉城村奥武』を取り上げます。
天ぷらで一躍有名になった南部の観光スポット。実は米軍との濃密な交流がある島だった
「奥武島(おうじま)」といえば、南部の有名な観光スポットですね。名物といえば橋を渡ったすぐ右目の前にある、大行列の天ぷら屋さん。那覇から車で30分ほどで行けることもあって、地元民や観光客で賑わっています。多いときには島の人口の数倍もの人が、一日で島に訪れるそうです。
観光地として有名になった奥武島ですが、実は戦後、米軍と濃密な交流の歴史がありました。まさに米軍の協力で発展してきた島と言っても過言ではないのです。その交流の証しが、橋を渡ってすぐ右側にある石碑です。米海軍との交流の歴史が刻まれています。
集落の区画も、沖縄には珍しい碁盤目状になっているのですが、これも戦後米軍が整備したことによるものです。今回は奥武島と米軍の交流の知られざる歴史を、古写真で見ていきましょう。


少々脱線しますが、玉城中学はバスケの強豪でした。メンバーの主力は奥武島出身者が多い時代があったそうで、その背景には、このような米軍の若い兵隊とのバスケ交流があったと言います。


米軍が来るたびに島を挙げて大歓迎。オーケストラの演奏会も開催された
米軍高官が来島する際は、今の直売所がある辺りにヘリコプターが着陸、そのときは島民挙げて大歓迎だったそうです。






現在でも奥武島と米軍の交流は続いており、ハーリーの際には米軍も参加して、一緒にレースを楽しんでいます。
沖縄は長年、米軍基地反対の歴史がある一方で、各地にこのような交流の歴史も数多く存在します。基地問題は賛成反対の二元論ではなく、もっと多面的であり、地域によっても感情や歴史に違いがあることに気を付けて取り組む必要があるのではと、古写真を発掘するたびに思い知らされます。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)