平成が終わり、時代は令和となりました。時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。
今回も南城市の『旧佐敷町新里』を取り上げます。
毎年11月に南城市で行われている『尚巴志ハーフマラソン』、そのコースの一部に、ランナー泣かせと言われる心臓破りの坂があります。それが『新里坂』です。『しんざとびら』という方言読みの方が有名ですね。この坂があるのが、旧佐敷町新里です。2018年に南城市役所が移転し、南城市の中心地となりました。
大規模な製糖工場は『お風呂屋さん』でもあった!?
新里は水が豊富で平地も多い場所であることから、稲作や畑作が盛んに行われていました。中でも戦前、地域が営むものとしてはかなりの規模の製糖工場がありました。今の新里公民館がある場所です。今回は、新里公民館周辺の古写真をご覧頂きます。
この製糖工場、当時としては大型の30トンクラスのボイラーがありました。このボイラーが『副産物』を生んでいたのですが、それは『お風呂』でした。
ボイラーからは大量のお湯が出るため、これを活かして冬場限定の『お風呂』を楽しんでいたのです。製糖期は冬場ということもあり、地域の方は毎年、この季節を楽しみにしていました。
さらに、『白梅学徒隊』(沖縄県立第二高等女学校の生徒で結成された学徒隊)の一員だった中山きくさん(新里出身)によると、沖縄戦時の逃避行の際、母親から持たされた黒糖で命を繋いでいたそうなのですが、その黒糖はおそらくこの工場で作られたものなのだそうです。しかし、沖縄戦の際、この煙突が艦砲射撃の目標となったこともあり、工場は破壊されてしまいました。
戦後人口が増えた新里。近くに沖縄民政府があり、インフラ整備もいち早く行われた
戦後、新里公民館は、かつては馬場で現在は広場になっている隣の敷地に建てられます。近くに沖縄民政府(現在のユインチホテル南城)があり、戦時中も収容所があったことから、新里はたくさんの人が住むようになりました。
そんな事情もあり、整備されたのが『簡易水道』です。旧佐敷村内では最も早く整備され、1947年頃にはすでに利用されていたそうです。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)