平成が終わり、時代は令和となりました。時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。今回は、南城市の『大里城址公園』を取り上げます。
沖縄県内屈沖縄県内屈指の「遠足のメッカ」だった『大里城址公園』
『大里城址公園』と聞いて「懐かしい~」と思った方はおそらく50歳以上の方のはずです。なぜならば、かつては沖縄県内における遠足のメッカだったからです。南城市大里西原にある大里城址公園は、その名の通り大里グスクがあった場所です。沖縄県内にあるグスクの中では、首里城に続く規模だったと言われています。
沖縄戦の最中、大里城址には日本軍が陣地を構えていたこともあり、南部では珍しい白兵戦があったとも言われています。戦後は公園として整備され、県内各地の学校から遠足に訪れました。1960~70年代の卒業アルバムを見てみると、大里城址公園にたくさんの生徒が訪れ、フォークダンスなどに興じる写真が残っています。
続いてご覧頂きたいのが以下の写真です。
一見すると、整地作業を行うブルドーザーという写真ですね。実はこの写真で2つの発見がありました。一つはブルドーザーです。これは米軍が提供したブルドーザーなのだそうです。当時、大型の重機を持っているのが米軍だけだったので、学校や公園などの公共施設の整備は、米軍の協力無しでは作業ができなかったのです。
そしてもう一つ。それは『大里城址公園にはブルドーザーが入ってしまっていた』ということです。少々わかりづらいですよね?何かと言いますと、大里城址というぐらいなので、周辺も含めてこのあたりは文化財でもあるんです。ということは、発掘調査の必要が出てくるのですが、ブルドーザーが入っていたということは、貴重な文化財が荒らされてしまっている可能性があるということです。文化財の専門家からすると、これはとても悲しい事実なのだそうです。
ですが、南城市教育委員会や旧大里村教育委員会には、ブルドーザーが入っていたという記録が長年存在せず、この場所は『手付かず』だと考えられていた。しかし、この写真が出てきたことで、初めてその経緯が判明したのだそうです。教育委員会の文化財担当者は、この写真を見て「あぁ・・・、ブルが入っちゃってたのか・・・」と肩を落としていました。
(協力:南城市教育委員会 / 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)