平成が終わり、時代は令和となりました。時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。第1回めとなる今回は、南城市にある『久高島』を取り上げます。
久高島と聞いて何を連想しますか?
ほとんどの方が『イザイホー』という12年おきに行われていた神事を挙げるのではないでしょうか?『神の島』とも言われ、島全体が聖地となっており、立入禁止の御嶽もたくさんあるという神聖な場所です。
一方で久高島は、イザイホーぐらいしか有名になりませんでした。あとあえて言うなら、イラブー(ウミヘビ)の燻製と重量挙げの糸数陽一選手ぐらいでしょうか。確かにご神事が多い島とはいえ、日常生活が大半であり、離島ならではのご苦労もあります。でも、その日常とご苦労の話が、実はあまり語り継がれていないことが分かったんです。
そこで今回は、久高島の語られていない生活史をご紹介します。
「水」との戦いから「しあわせの水」へ
久高島は御神事だけでなく、実は長年『水』との戦いの島でした。井戸は島内に5ヶ所しかなく、毎日何往復も水汲みの必要があったそうです。しかも驚きなのが、これそんなに昔の話じゃないんです。昭和52年まで水汲み生活でした。
雨の少ないシーズン、井戸は枯れるまではいかないまでも水量が減ってしまい、水を求める人たちで大行列だったそうです。水汲みは女子供の仕事だったので、今でも50代以上の方々は当時の苦労話を延々とされます。逆に男性は、15歳から『海人』として一人前の実力を求められるため、13歳から英才教育を施されていたそうです。
現在、久高島では昭和52年に海底送水管が完成して、本島から配水が行われています。久高小中学校さんから、海底送水管開通を祝うパレードの写真が出てきたことで、この事実が明らかになったのです。
島の女性にお話を伺ったところ、みんな食い入るように写真を見て、中には泣きそうになってる方もいました。それぐらい、久高島は水に苦労した島であり、配水管がつながったことで、たくさんの人が救われたのです。
久高島
沖縄本島東南端に位置する知念岬の東海上5.3kmにある、周囲8.0kmの細長い島。
琉球の始祖”アマミキヨ”が降臨したと云われ「神の島」とよばれる。神秘的な祭事が今でもそのまま残っている。