時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。
今回は南城市の『旧玉城村百名』を取り上げます。
皇室に献上するためのコメを栽培する特別な水田「献穀田」が存在した百名
南城市では南部に位置する旧玉城村、その右端に位置しています。バスのターミナルがあるので、比較的知名度が高い場所で「ひゃくな」と読みます。かつては集落内に国道が走っていたため、南部のドライブでは必ず通る場所だったのですが、バイパス開通後、あまり立ち寄る機会がない場所となってしまいました。
しかし、歴史を辿ってみると、非常に興味深い場所であることがわかります。その一つが「献穀田(けんこくでん)」です。
これは新嘗祭に使用するコメを栽培する水田のことで、皇室に献上されました。全国各地の優良な水田から選ばれ、単にいいコメが穫れるだけでなく、風景として素晴らしい水田が厳選されたため、献穀田に選ばれることは大変名誉なことだったのだそうです。
戦前、沖縄で選ばれたのが2ヶ所、それがここ百名とお隣の志喜屋でした。1944年に行われた献穀田での田植え式の様子が残っていますので、そちらをご覧いただきます。それぞれ、正確な場所は不明ですが、現在の百名小学校裏辺りだと思われます。
この写真が撮影された翌年、沖縄戦がありましたが、百名はそれほど大きな被害を受けなかったため、大きな収容所が作られました。周辺の収容所を合わせて2万人以上もの住民がここに収容されていたとされています。
情報求む!戦後数年間存在していたとみられる「知念中央病院」について
百名で古写真を収集した際、地域の方から提供頂いた中に「知念中央病院」の写真がありました。アメリカ軍が提供したと思われるコンセット型の建物で、そこそこ規模も大きい施設なのですが、あまり情報が集まりませんでした。どこに存在し、どんな施設だったのかなど、小さなことでもご存知な方がいらっしゃたら、ぜひ情報をお寄せいただけると助かります。
当初は百名集落内で診療所のような規模だったそうです。その後移転したとのことですが、お隣の仲村渠の幸喜集落ではないかという説もあります。ぜひ皆様のお力をお借りできればと思います。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)