平成が終わり、時代は令和となりました。時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。今回は前回に引き続き、南城市の『旧佐敷町津波古』を取り上げます。
『クジラ漁』の一大基地だった津波古馬天港
前回は津波古周辺が戦前戦後、基地の街だったことをご紹介しました。1960年代には撤退しましたが、それまでの津波古は南部でもかなり栄えた街の一つでした。基地があれば仕事がある、仕事があれば人が集まるということで、津波古の街は大変賑わったそうです。
津波古の拠点はなんといっても『馬天港』です。現在は通り過ぎてしまうことも多いのですが、馬天港といえばかつて、クジラ漁の拠点だったことをご存知でしょうか?
かなり大型のクジラを捕っていたことが写真で分かります。さらに、現在の国道沿い、津波古バス停周辺には、クジラの解体工場もあったそうです。前回書きましたが、馬天港からは南北大東島の定期船が出ていたため、多くの島民が馬天を訪れていました。
空前の賑わいを見せた旧津波古公民館周辺。そこは『桟橋通り』と呼ばれていた
例えば、港の前にあった製糖工場では、多くの島民が出稼ぎに来ていたそうです。地域の方に伺うと、たまにこの周辺を、地域外の方が写真を撮っていたりするそうで、話を聞いてみたら、南大東島の方でおじいさんが昔製糖工場で働いていたので記念に訪れた、というエピソードを教えてくれました。
その賑わった津波古の中心が、旧津波古公民館周辺です。現在の公民館から約100m港側に離れていますが、かつて公民館があった通りは、通称『桟橋通り』と呼ばれ、地域のメインストリートでした。その様子をご覧ください。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)