平成が終わり、時代は令和となりました。時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。
今回も南城市の『旧大里村南風原』を取り上げます。
普段は小さくておとなしい饒波川。しかし大雨の際は暴れ川として豹変する
前回、南風原区はとても水が豊富とご紹介しました。周りを大里城を始めとした高台に囲まれ、ちょっとした盆地のような地形になっていることも特徴のひとつで、その周囲の山々から水が集まる場所が南風原なのです。一方で、大雨が降ったときは、想像を絶する水の量が南風原に集中することも意味しています。
その原因は、集落の真ん中を流れる饒波川(のはがわ)です。川といっても、その幅はわずか1メートル少々、もはや川というより、大きめの側溝か農業用水にしか見えないほどの小さい川なのです。普段はその存在すらも分からないほど、おとなしい川なのですが、この小ささが氾濫に直結するのです。
地域の方々によると、大雨のたびに洪水を引き起こすため、度々役場に整備のお願いをしていたそうです。しかし、役場はなかなか動いてくれません。そこで1995年~1996年頃、地域に住む玉城さんが、まさしく命の危険を顧みず、氾濫する饒波川の様子を記録したのです。それがこれらの写真です。
玉城さんは南風原区で最も低地、要するに氾濫が起こる場所に自宅を構えていました。この写真が証拠となり、この後ようやく饒波川の整備が進み、現在ではほぼ被害が出ることはなくなったそうです。
田んぼがあった頃は川の氾濫を『天然のダム』として食い止めていた
度々氾濫していた饒波川ですが、かつては洪水したとしても川沿いの田んぼが水を吸収して『天然のダム』として機能していたそうです。しかし、1960年代から田んぼからサトウキビ畑になっていった頃から、徐々に保水機能が失われ、集落に水が溢れることが多くなりました。田んぼだった時代の写真もご紹介します。
近年、全世界規模で自然災害が急増しています。かつての先輩が記録した災害の恐ろしさを後世に伝えていくため、その資料・材料としてアーカイブは非常に大切であると実感させられたのが、ここ南風原区での収集だったのです。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)