平成が終わり、時代は令和となりました。時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。
今回も前回に引き続き、南城市の『旧大里村大城』を取り上げます。
前回は大城の綱引きについてご紹介しました。その中で、大城は旧大里村の中で一番人口が多い集落であり、理由の一つに稲作が盛んだったことがあった、とご説明しました。沖縄ではかつて、サトウキビ畑よりも水田が広がっていたのですが、その時代の古写真は比較的多く存在しており、大城の水田風景の写真も出てきました。
大城周辺には田んぼがたくさん。かつては稲作が主要産業だった。
水田こそが沖縄の原風景、というお年寄りは多く、今でも水田風景を懐かしむ方がたくさんいらっしゃいます。まずは、大城公民館の正面から見た風景です。
そもそも沖縄は平地が少ない島ですが、大城周辺では稲作に適した平地が広がっていました。さらに大城城址がある山に染み込んだ雨水が湧き水となり、水が豊富だったことも稲作が盛んになる要因でした。
さらに公民館の周辺も水田が広がっていました。
前回ご紹介した大城の綱引き、かつては地元の田んぼで取れた稲わらで綱を編んでいましたが、徐々にサトウキビ畑に転用となったことで稲わらの調達が難しくなり、現在は沖縄本島で数少ない田んぼが残る金武町から買い付けているそうです。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)