平成が終わり、時代は令和となりました。時代とともに色々なものが変化していきますが、大きく姿を変えていくのが『まち』そのものではないでしょうか?特に沖縄は、基地の影響や米軍統治など、歴史的に内地とは異なった独特なまちづくりが行われてきました。
そんな貴重な昔の風景を残しているのが、地域にたくさん眠っている『古写真』です。
「昔の沖縄ってどんな風景だったんだろう?」
「昔の沖縄はどういうまちづくりがされていたんだろう?」
「昔の沖縄の人はどんな生活をしていたんだろう?」
こんな疑問に応えてくれるのが古写真。そう、古写真は地域の歴史や事実を伝える『超一級の資料』なんです。この「おきなわアーカイブ」では、地域から集めた古写真など貴重な資料をもとに、意外な沖縄の歴史をご紹介していきます。
今回も南城市の『旧玉城村仲村渠』を取り上げます。
仲村渠の農耕地帯『下田地区』。かつては広大な水田が広がっていた
前回、仲村渠は国道331号線を境に右と左に分かれていて、右側が『下田』と呼ばれているとご紹介しました。
名前の通り、下田地区は田んぼがたくさんある地域でした。しかし戦後、現在の琉球ゴルフ倶楽部に米軍基地ができると、そこから農薬などの汚染物質の影響を受けてしまい、さらにサトウキビへの農地転換が進み、水田は姿を消していきます。現在は水質改善も進み、クレソン栽培が盛んに行われています。
今回は、1969年に行われた幸喜ウシさんのカジマヤーの写真です。ご自宅から公民館まで大規模なパレードが行われました。下田から公民館まではかなりの上り坂になりますが、地域の方は行列を作り、公民館まで歩いて行ったそうです。
(※写真がかなり傷んでおり、ところどころ剥がれがあります)
下田地区から仲村渠公民館への道のりは険しい坂道。かつては歩いて上り下りしていた
ここまで来るのもかなりの坂道を上っています。しかし、ここから国道331号線付近になりますが、ここから先はさらに厳しい上り坂となります。
この後、公民館前の広場に無事に到着、広場に作られた舞台では様々な余興が行われました。
仲村渠の下田地区には10数戸しか住宅がなく、殆ど知られていない場所ですが、代々区長を輩出する名家が多く、地域の田んぼや畑の多くがここにあるため、仲村渠を支えてきた地域でもありました。地域の中の、さらに小さな地域の歴史も記録しているのが、古写真の魅力でもあるのです。
(協力:南城市教育委員会 監修:沖縄デジタルアーカイブ協議会)